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“パックマンの父”の戒名は「夢創院法遊日雅居士」、ナムコ創業者・中村雅哉さんのお別れの会に行ってきた

 1月22日に逝去したナムコ創業者の中村雅哉さん。『パックマン』を始めとした数多くの作品を送り出したことで、ビデオゲーム史に足跡を刻んでいます。

 3月21日に誰でも参加できるお別れの会を開催するということで、僕も行くことにしました。バンダイナムコの『アクセル・ワールドVSソードアート・オンライン』のマルチ配信をしてるからまったくの部外者でもないし(たぶん)。

 →「中村雅哉 お別れの会」のご案内(株式会社バンダイナムコHD)

 お別れの会の会場は帝国ホテル2階の孔雀の間。

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 クロークに荷物を預けてから受付で名刺を渡すと、お別れの会の概要が手渡されました。内容は中村さんの足跡や、座右の銘らしき「一期一会」の揮毫、バンダイナムコ会長&お別れの会委員長の石川祝男さんのあいさつ。

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 献花台では係の人から渡されたカーネーションをお供えしてから黙とう。献花台は撮影NGだったのですが、笑顔の中村さんの遺影の左側にパックマンの大きな装飾がありました。

 献花台の右の通路を抜けると、かなり広めの軽食コーナーがあり、奥では中村さんに関するパネルがずらりと並んでいます。

 中村さんの戒名は「夢創院法遊日雅居士」。ちょっと変わった戒名ですが、昭和40年代のナムコの企業スローガン「お子様の夢を創る」に由来するようです。

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 パネルのほかにも模型も紹介もあり、中村製作所(のちのナムコ)立ち上げの時に横浜・伊勢佐木町の松屋の屋上に設置した木馬がありました。

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 1977年に参入した室内クレー射撃場は、任天堂も試していたこと。任天堂は1973年スタートなので、ナムコの方が出遅れてはいますが。

 ちなみに任天堂中興の祖の山内溥さんは1927年生まれで、1925年生まれの中村さんより2歳年下。おたがい50代を超えてから家庭用ゲーム機の激動期に突入したことになります。

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 そして1980年前後に『パックマン』が世界的なヒット。

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 『パックマン』は29万3822台の設置と、最も成功したアーケードゲームとしてギネスブックも掲載しています。

 ナムコは『ギャラクシャン』『ゼビウス』『マッピー』など多くの人気作品を送り出してきたのですが、パネル展示のビデオゲーム部分では『パックマン』に絞っていました。

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 会場はバンダイナムコ関係者などでいっぱい。退職したらしき年配の人が目立っていて、創業直後の写真を見ながら「このころはお金がなかったんだよね」と懐かしそうにつぶやくおじいさんも。

 現役のゲーム関係者でも、リュックを背負ったカドカワの浜村弘一さんや、パネルの写真を撮ってるアリカの三原一郎さんを見かけました。

  軽食コーナーでは中村さんの好物だったという「ふかひれあんかけ焼きそば」「五目焼き飯」「イチゴのスイーツ」を提供。

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 二子玉川にあったナムコワンダーエッグにイチゴ味のお菓子があったのは、中村さんの好物だったからかもしれません。

 出口ではパックマンのマカロンと、冊子をもらいました。「夢を売る男になりたいねえ」という粋なタイトル。

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 ちなみにマカロンを製造したイタリアントマトは、かつてナムコの子会社でした。今もある程度の株式は保有しています。

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 冊子は87ページもあり、初出っぽい資料もいくつか。

 そのひとつが中村製作所の第一期決算報告書(1955年)。松屋の屋上に設置した電動木馬2台が10万8500円とあります。1955年の大卒男子初任給は1万2907円なので、今の価値で170万円ほどになる計算。

 木馬の次には金魚すくいにも手を出したのですが、どこかでミスったのか「金魚死亡及金魚鉢破損 8987.5円」とあるのが興味深かったです。

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 実は1月30日に中村氏逝去のリリースが出てから、2月27日にお別れの会の案内が来るまで1カ月ほど空いたので、あんまりやる気ないのかなと思っていたのですが、ちゃんと準備していたから時間がかかったんだなと。

 それにしても歴史の証人ともいえる人物が次々と亡くなっていくのは寂しいですね。